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山本春海と東条巧巳の自宅は比較的近所で、2人とも同じ駅を利用している。
巧巳は、里見の近くにあるスポーツジムに通っており、今日もその帰りで遅くなっていた。
さすがに疲れていて、帰ったらシャワー浴びてメシ食って寝よう…などと、漠然と考えていたところ、電車が駅に着いた。
「あっれ、巧巳じゃん」
「巧巳いー!」
「おー」
春海と改札口で別れ、ホームに続くエスカレーターを上りはじめていた、いるか。
エスカレーターに隣設されている階段を下ってくる巧巳に、豪快に手を振る。巧巳も片手を挙げて応えた。
「あらよっ…とおお!」
巧巳とすれちがいざま、エスカレーター側から階段側へ、横跳びで越えて巧巳の目の前に華麗に着地した。
周りの大人たちは苦笑いをし、塾帰りの子供たちは目をキラキラさせて「すげー」「女だぜー」「マネしちゃいけませえーん」「ぱんつみえそうだったー」とか、ふざけてさわいでいる。
「おいおい…」
いるかの奇行にもう慣れてしまっていた巧巳だが、目を少し細めて、1コ年上という微妙な貫禄で、つぶやいた。
「9.99」
「ぬわにおうっ、10.00だぜっ」
「技術点は満点でも、芸術点ていうのがあるんだぜ」
春海も巧巳も、仮にも女の子のいるかに対してけっこうヒドいことを言うモンだ。
「どういう意味よっ」
「おおっと!」
ついさっき、春海に制裁を加えたコブシに巧巳は襲われたが、体がすぐに反応した。
素晴らしい動体視力、そして運動神経。
「!」
コブシを空中で思いっきり空回りさせたいるかがバランスを崩しかけた瞬間、巧巳はいるかの二の腕を掴んでいた。
危うく階段の上からゴロゴロしないですんだ。
「あっ…ぶねーなあ、おまっ…落ちそうだったぜ」
ホッとする。冷や汗を感じた。
巧巳の様子とは対象的に、いるかは平然としていた。
「フッ…甘い。10.00のあたしはそうそう階段から落ちたりしないのさっ」
「おまえな、そういう問題じゃないだろ」
ふざけるいるかに、巧巳がほんの少しだけ怒った。
軽く怒ったところが、春海に少し似ているな、男の子ってみんなこうなのかなあ、といるかは思った。
「ゴメン」
「でも、もし落ちてたらさあ、あたし、アタマ打って、追試、全部おっこちてたかもね」
「ありがとっ」
彼が助けなくてもいるかは自力で転落を防いでいたかもしれない。
けれど、最後の言葉は素直に出た言葉だ。
「まったくよ…気をつけろよな…じゃあ、俺、帰るからよ」
「うん、じゃあね、また--」
--明日、学校でね!と言いそうになった時、巧巳が学バンとスポーツバッグしか持っていないことに気がついた。
「巧巳」
「なに」
「コレ、使いなよ、貸すよ」
バシッと渡されたのは、傘。
水玉のやつ。
「フ。ちょっとした礼ってモンよ、あたしだってそれくらいするさ。なあに、遠慮はいらないよ」
その時、丁度、上りの電車が到着していた。
「それじゃあね!巧巳!」
「おっ、おい!いるか!」
いるかはあっという間に、電車の中に飛び込んで行ってしまった。
巧巳はいろんな意味で困った。
女ウケしそうな水玉柄の傘には、
青色の油性マジックで「山本春海」と書いてあって、プラスチック製の持ち手に染み付いていた。
駅を出たら雨は降っていなかった。
-3- に続く
-1-
いるかは、高校2年1学期末テストの追試を(全教科!)受けることになり、奈落の底まで落ち込んでいた。
春海は、あまりにもいるかの追試の多さに、いつもの事だと気にしないふうを努めて装っているふうだったが、ぶっちゃけあきれてしまっていた。
「おまえなあー…」
そしているかの頭にすらりとしたキレイな手を(ポン)とのせて、人がいう"冷血"であろう顔で、
「…とりあえず、スパルタだな」
つぶやいてみた。
「ゲッ」
「ゲッ」という叫びはとりあえず無視し、強制的にいるかを自宅に引きずりこんだ春海は、パーマンな彼女の、もうどうにもならない感じの追試対策を試みようというわけだ。別に他意はない…はず。
海岸沿いにある春海のマンションは、窓を開けるといつでも潮風が流れてきて、ちょっと、しょっぱい感じがする。
「わからんわからんわからんよ〜」
「あばれるなっ、わかんないから教えてんだろっ」
「でも全教科なんてムリよ、もうあたし、だめなんだあ」
春海は(里見学習院受験の時よりマシだから)と、いるかを励まそうと頭を撫でようとしたが、いるかの言葉で手が止まった。
「ナンか、あんときみたいにがんばれないなあ…勉強」
「あんとき?」
「ガク中んときの雪山ツアーのときとか、高校の受験ときとかさあ…」
「たいてい切羽つまんないとやらねーからなあ、おまえは」
言葉のわりには、やさしく微笑む春海。
赤くなりながらタバコサイズに小さくなるいるか。
「ま、今回も充分切羽つまってるけどな…お茶いれてくるから、その問題やっとけよ」
いるかは何か言いたげだったが、結局、ため息だけにしておいた。
春海が紅茶をいれて部屋に戻ってドアを開けると、冷たい潮風が出迎えた。
「ちょっと、さむいなあ」
「雨、降るかもな…おまえ、傘持ってきてないだろ、帰りに貸すよ」
窓を閉めたあと、思いのほか外が暗くなっているのに気付く。
「うげえ、降って来た」
雨に気付いた彼女が「うげえ」とか言ってても、春海は一切、気にしない(はず)。
むしろ彼も口が悪い。
帰りしな、藍おばさん、徹くんコンビとマンションの玄関先ですれ違った。
「じゃ、また今度ね、いるかちゃんっ」
「うん、バイバイ。徹くん、今度きたら、みんなであそぼーぜっ」
兄の春海とは対象的な、くりくりした瞳の徹。
最近、背丈もいるかと変わらなくなって、言葉も大人びてきた。
もしかしたら「あそぼう」なんてさそっても相手にしてくれない日が近いのかもしれないけど。
「じゃあ、気をつけて帰れよな…ホントに送んなくていいのか?」
「いいよっ、雨だしさ」「傘、ありがとっ」
いるかは、山本家の傘の中でもできるだけかわいい感じのする(女の子が持ってもヘンじゃない)水色地の白の水玉模様のものを借りることにした。それは、すごく彼女に似合っていた。
「…似合ってんな」
「んえ?なに?」
「やるよ、それ。そんな柄、俺はもう使わないしさ」
「えっホント!サンキュー」「この傘、春海のだったの、徹くんのかと思った。すごくかわいーね。ていうかこういうの使ってたの、意外じゃんっ」
春海のそんな一面を知って、いるかはヒヒヒと笑う。
どうしたもんかと春海は困り顔をする。
「…けっこー使ってたんだぜ、それ。小学校の時…いや、小学校あがる前にはもうあったような…」
「ホラ、サイズもわりと小さいし」
「…」
「…小さいから、なによ」
こぶしを作っている。
こういう時のいるかはカンがいい。
「…この傘、とてもおまえに、合ってんな。いるか」
バキッ
-2- に続く